Goldensteps

個人ブログです 意義はないです

半径一歩の行く先に(「できない」ことを考える)

人にはその時「できない」ことがある。

100メートルを9.58秒以上の速度で走る事は、恐らくウサイン・ボルト以外にできない。500ミリリットルのペットボトルに1リットルの水は入れられない。棍棒で何度も何度も頭を思い切り殴られて死なないこともできない。大体50時間以上は起きていられないし、コンロの火に手を当て続けて火傷をしないというのもできない。

同じようにして、僕は今から次の一歩を進むまで半径一歩の範囲までしか移動できない。そうして当たり前に、人には「できない」ことというものがある。

当たり前すぎて、誰にでもわかる。でも、当たり前かもしれないことに案外気付けていなかったりもする。それは僕もそうだし、これを読んでいる人もそうだし、ウサイン・ボルトだってそうなのだ。

そのようにして「できない」ことを責める人はいるだろうか?ウサイン・ボルトより早く走れないことに対して、日常の生活の中で責める必要のある場面というのは考えられない。誰だってわかる。

だけど「そうしたことに対して怒って/責めてしまう人」というのがいる。

それは僕かもしれないし、アナタかもしれない。または、Twitterでおかしな怒り方をしている人かもしれない。でも、誰でもそういうことをしてしまう恐れがある。

「どうしてお前は100メートル9.58秒以上の速度で走らないんだ!」

と叱ることが、僕にも、アナタにもあるかもしれないという話。

 Twitterを見ていると色んな話題がある。

・もはや「物語は必要とされていない」という話への反応

・デジタルは人の弱さを助長させる、というMGSのキャプチャ

・電車内で出産することへの理不尽な批判とその騒動

小室哲哉氏に対する報道のあり方と議論

これらはこのブログを書いているまさにいま、僕のタイムラインで目立っていた話題の一部である。僕には「何か共通したモノが見落とされている」ような気がしていた。

これらは本当に「現代特有の」問題だろうか

もっと普遍的な問題じゃあなかろうか。僕はそう思う。だけど、同時に避けがたいものでもあると思う。誰かにたいして、何かをするべきだなんていう偉そうな態度を取るつもりはないのだけれど、大事にしても良いものというのは見えてくるんじゃないかと思うので、こうして長文を残したくなった。

◆僕はいつも通勤中に怒っている

都内の人ごみをかいくぐる毎日というのが、通勤の風景となっている。

人が多いと、できるだけスムーズな動きをしなければどんどんぐちゃぐちゃになっていってしまう。あまり非効率な動きはして貰いたくない。これは僕の正直な思いでもある。

混んでない所でイチイチ言うものではないにしても…

例えば、階段の上り下りは地面に表示されている矢印の方向に従って欲しいし、一人分の横幅は一人分として空間把握をしてほしいし、一人で中途半端に空間を取って二人分の空間を殺す立ち位置とか取ってほしくないし、移動が遅い人と早い人とで互いに邪魔にならないルートというものは模索してほしいし、改札前でいきなり立ち止まるようなことはしてほしくないし、エスカレーターを降りた直後に止まると危ないということは理解してほしいし、電車にのったらすぐドアの前で止まるんじゃねえとも思うし……

まあそんなことに対していつもいちいちイライラしている。

そういう心の状態でいると、今度は次のような事にもイライラしはじめる。

例えば、子供がふざけて走り回り危ない状態なのに何も注意しない親を見た時とか。松葉杖で立って乗ってるのに誰も譲ろうとすらしない状況だったりとか。

僕は割と最近まで、こうしたことに怒っていた。なんなんだコイツらは、と。

だけどそれは、最初に書いたように僕が「できないことへキレてる人」になってしまったことを意味するのだと、最近ようやく気付けるようになった。

◆「できない」にどう線を引く?

もちろん僕にはウサイン・ボルトより早く走る事はできない

では「ふざけて走り回る子供を叱る」ことはできないことだろうか?僕は単純にはそう思わない。せめて、言うことは聞かないにしても一声出してくれ、とか考えたりする。でも、本当にそれはできることなのだろうか。

できる、と思う。たぶん。やってほしい。だが、次の条件は?

「ふざけて走り回る子供を 叱り続けることは?

ウサインボルトに100メートル9.58秒で走れ!ということはできるかもしれない。

だけどウサインボルトに100メートル9.58秒の速度で走り続けろというのは無理がある。ウサインボルトをもってしても、全力疾走を1キロ2キロも続けさせたら多分死ぬ。文字通りの意味で。それはできない。当たり前にできないことだ。

では、日々野獣のような動きをする子供たちを「絶対に見続けなければいけない」状態の中で、母親たちに対して当たり前のように適切なタイミングで叱り続けることを求めるのは、ウサインボルトへ全力疾走を延々と求める事と同じじゃなかろうか?

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※僕は「次の1歩の瞬間」にあのドアを開ける事すらできない

 人間はできないことだらけである。

溶岩に飛び込んで死なないってことすらできない。3分くらい息を止めてることすらほとんどの人はできない。自分の周りの酸素濃度が大体20.9%じゃないと健康ですらいられない。15%を下回っただけで大体すぐ死ぬ。人間は本当にできないことだらけだ。

でも「その人が今できないこと」に対して怒っている場面がある。そういうことが、たくさん起きている。誰でもその過ちをしてしまう恐れを持っている。

ただダラしないだけだと(本人さえ)思っていても、実際は「どうあがいてもその時はできないものだったのだ」ということだったのかもしれない。

なぜなら「できないことを、できるはずだと思い込んでいる」からである。だから怒る。できることをやらないのだと、勘違いしているからだ。

それはウサインボルトよりも早く走れと言っているのと、結果としては同じなのだ。

◆今この瞬間から進める範囲には限界がある

見出しの通り。

今あなたがどこかに立っているなら、次の一歩の瞬間は「半径一歩」しか移動できない。それ以上はどうあがいてもできない。大きなジャンプの一歩は繰り出せても、それは一歩でしかない。

 多くの人はそうした「できない」ことに囲まれて生きている。見方を変えれば、多くの人は自分を中心にして、次にできることの一歩を進み続けているに過ぎない。

それは勉強かもしれないし、仕事かもしれない。時間だってそうだし、歩くのもそうだ。誰だって次の一歩を進み続けている。子供を叱らずに放置しているように見える母親だって、昨日はしっかり注意していたのかもしれない。それを続けることというのは無理な話だったのかもしれない。だが、それを確認することは誰にもできない。

限界の範囲を超えたことをしろとキレてみたところで、キレられたほうがどうしようもない。できないのだから。どんなに脅しても、財布に100円しか入ってない人からは、100円しか奪えない。そういう労力を、自分で使ってしまっていることになる。

そもそも、限界ギリギリを常に維持することということすら無理な話である。僕たちは、他人に対してそうした想像力を色んな方向に逞しくしすぎて「できないものをできるはずだと思い込んでしまう」のだ。

◆見るべき所はどこか?

では「次の一歩」を見極めるにはどうしたら良いだろう?

これは難しいことではない。今その人がどこにいるのか、を見ればいい。

教育する時も、会話する時も、もちろん移動する時も。

今その人が「どの段階・場所にいるのか」さえわかれば、そこから次の半径一歩を示すことができる。それは、その人ができる範囲の内容になるはずだ。だったら意思疎通になる。必ず。

結局、大事なのは思い込みをなるべく捨てる事だと思う。可能ならば対話ができると良い。その問題や悩みが深く真剣であるほど、1対1の真剣な対話が必要にもなってくる。大切な次の一歩を模索する為に

正しく用意された、効率的な一歩を踏めるかもしれない。一歩は何も自分一人だけとは限らない。その行動をすること自体は、本人にしかできないことだけども、いろんな形で手助けできるものが、この世界にはたくさんある。

だが、せっかくそうしたものに触れられるチャンスがあっても、思い込みによって怒ってしまう人が現れると、それも邪魔されてしまったりする。とても、不幸なことだと僕は思う。

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※同じ一歩でも、この一歩先に進んでさえしまえば僕は遠くまで運んでもらえる

◆もっと人間は信じるに値する

物語はいらないのだと嘆く作家がいた。

デジタルは人の弱さを助長し「それぞれにとっての正義」が結局なにも正しくない世界を作る、と捉えた何かがいた。

電車内で出産することへの批判で無知をさらけ出してしまった人達がいた。

小室哲哉氏の状況を正しく捉えない報道姿勢の人達もいた。

 

僕はこれらの例に対して、違う問題であるとは言え… 奥の方に共通した何かが引っかかっているような気がしている。それは、このブログで再三語っているように(意図的にせよ:!)次の一歩に進めるのだということを信じられなくなってしまった結果なのではないかと思っている。

それぞれにとっての都合の良い正義を取るというのは、言葉はかっこよくなっているが、悪く表現してしまえば「こんなもんだ」と(例えば人生に対して)タカを括ってしまったということでもある。

何かに疲れてしまったり、人の縁に恵まれなかったり、知識が無かったりして、そうなってしまうことはたくさんあると思う。それも一つの「その時できないこと」とも言える。次の一歩としては大きすぎるということだ。

作家さんには申し訳ないけれども、今でも人は「誰か個人の物語に大きく心を動かされる」ようにできている。関係性や、その真剣さの違いによってはそうならないこともあるだけで、どれだけデジタルが発達しようが、今の所僕たちは1対1の真剣な対話を基本として生きるという強い生活を取り除くことはできない。

◆正しい一歩を応援する世界に

僕は自分の反省も含めて、誰かの次の一歩を見極められるようになりたいと思う。誰かの「今できないことにキレる」という暴力を振るいたくないという思いもあるし…

誰かの「正しい次の一歩へ進むこと」を応援したいというのもある。

何が正しい方向なのかを見極められると思うほど慢心しているつもりはないけれども、せめて間違った方向だけは見極められるようになりたいと思う。

あまりに多くの人の視点を変える事などは僕一人にはできないから、このブログの内容が求める事は現実離れしているかもしれない。誰かにとっての次の一歩を的確に読み取れる人がたくさん増えたのなら、電車内で出産した人を無知の上で批判してしまうようなことは減るかもしれないと思う。

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※次の一歩を間違えると、そこは崖の下だってこともある

実際の所、誰かが本人にとって、本当に正しい、人生においての「次の一歩」を歩みだせたのなら、それは想像を絶するほど偉大なことだと僕は思う。大切な友人がその一歩を踏み出したのを見て、喜びに泣けるような人間に僕はなっていきたい。その友人や大切な人がその一歩を踏み出せる為に、全力で応援できるような男になっていきたい。そのための実力をつけるべく、僕の一歩を信じて、誰かの一歩も信じて、創造力豊かでいられるようでありたい。そういう日々を、明日からまた進んでいきたいと思う。

人間ならば例外なく、そうした偉大な一歩は必ず踏み出せる。僕はそのことを疑わない人生にしようと決めた。実力的には何にもできないけれども、そこだけは胸を張って、人に優しく生きていきたい。