Goldensteps

個人ブログです 意義はないです

選択肢と生きる事

24日の朝、友人がこの世を去った。30代だった。高校時代の同窓生だ。

 

◆思考のはじまり

mastodon.cloud の中でこんな話題が出ていた。

「どこからを意識と捉えるべきか?」

その話題をつぶやいていた人物は、例えばイルカだとかの知性が高いとされる動物の扱いに対する議論へ考察をしている様子だった。

知性が高い… 心がある、といった視点から無闇な殺害はやめるべきだという議論について彼は考えていて、そこから逆説的に「ならば心がないとされた対象へは何をしても良いという話に拍車がかかり危険ではないか」と思考を巡らせていた。

 

どこからが”意識を持っている”ことになるのか。それは哲学的な問題か?科学的な話なのか?

見えない所のことを考えても先に進めない。僕はせっかくいま化学という分野で働いているのだから、僕なりにそこから考えてみようかと思った。

 

とはいえまだまだ化学のことは全然理解していないので、当然間違いだらけだけども。

◆物事はすべて電子の動き?

あらゆる物質やその変化は、電子がどのように移動しているかでほとんど全てが決定しているように、現在では観測されている。

僕たちが息を吸えば、酸素が肺に入る。肺の中にある肺胞にはとても緻密な毛細血管が張り巡らされている。血管と、吸った空気の境目が曖昧になるくらいの小さな世界が肺胞の中にはある。

空気の中の酸素が、血液中のヘモグロビンと結合する。ざっくり言えば、ヘモグロビンには鉄分があって、酸素と結合する。そうして血液は肺胞を通ることで酸素を受け取り、身体中へ運べるようになる。

酸素が鉄と結合するような反応を酸化という。こうしたことも電子の移動の結果だと言える。酸素原子にある電子の一つが、鉄の近くにあることで安定できなくなり、引き寄せられるような動きをする。酸素と鉄がくっついた状態が、電子としては安定できる状態というのもある。だから酸素と鉄がくっついてしまう。

人間の呼吸だけを見ても、こうした電子の動きが一瞬のうちに膨大な回数で発生している。これは僕のいる東京都でもそうだし、地球でもそうだし、恐らく宇宙全体でも共通している。

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※くっついたり・はなれたりを無数に繰り返している(イラスト:「いらすとや」さん

 

◆どこからが「自分」なのか

ところで、僕たち人間に限っては酸素濃度が一定でなければ困る身体を持っている。酸素濃度とは、いつも吸ってる空気の中にどれだけ酸素があるかという割合のことだ。これは地球で普通に暮らす所では大体20.9%となっている。

酸素濃度が足りないと酸欠になったりして動けなくなってしまう。しかも、酸素濃度が低すぎる空気を「ひといき吸うだけで即死」してしまう。それは、先ほどの肺の話でいう所の「酸素と鉄が結合する肺胞」の中で ”酸素と結合できていない鉄”だらけの血液 になってしまうことが原因となる。ほとんと酸素を持たない血液が脳に達すると、脳は必要な酸素を手に入れられなくなる。その瞬間、脳は機能を維持できなくなり、即死もしくはそれに近い状態となる。

普段、息をしばらく止めていても大丈夫なのは、酸素濃度20.9%の空気を吸った後、その酸素を使い切るまでにある程度時間がかかる(肺の中に貯蓄されている)からだ。

 

僕たちの身体は”どこまでが”僕たち自身と言えるのだろうか。酸素のない空気を吸うだけで、僕たちは機能を維持できない。しかし、その酸素を取り込んで、二酸化炭素として吐き出すまでのサイクルはそんなに長い話ではない。

取り込まれた酸素が僕たちの思考を成している訳ではないけれども、その駆動には本当に必要なものだ。

食べ物を消化分解してアミノ酸として吸収した後、身体の組成やエネルギーとして使用するのも、雑に言えば全て電子のやりとりの結果とも捉えられる。

ならば、僕たちが普段認識している「意識のようなもの」はどこからであるのだろう。酸素は本当に一切が僕たちの意識とは無関係なのだろうか。車を走行させるために必要なガソリンはたしかに車ではないが、ガソリンない現代の内燃型自動車はただの鉄の塊と言っても良いかもしれない。

そのように考えていくと、そもそも「生命のようなもの」には線引きができないのかもしれないとも思える。乱暴な捉え方かもしれないけれど、誰かがそこに線を引けた例はあるのだろうか。肺胞の境目を超えて、ヘモグロビンと結合した酸素から自分の身体だと認定すべきだろうか。もちろん酸素や鉄の原子に意思は(恐らく)存在しない。これらは生命ですと言ってみても、一般的には否定されるだろう。

僕たちがいま認識している意識も、本当に生命なのだろうか。同じように電子のやりとりの結果なのかもしれない。逆に言えば生物的な僕らも、酸素も鉄も、世界の中においてはほぼ同様のものと捉えても良いのかもしれない。

モノにだって意識が宿る、とまでは言わないけれども、線引きができない以上は無関係とは言えない。だって実際に吸ってるし、食ってるし。

 

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※雪中の桜を見たとき、ふと自然の「生命」のようなものを考えることがある

 

…といった考え方は、たぶん誰もが一度や二度はすると思う。全てが結局は連続した動きの一つに過ぎないと捉えると、なんだか「生命の存在を否定された」かのような寂しさも感じる。でも、僕はそれが冷たい論だとは思わない。

むしろ仮にそうした電子の動きが宇宙の法則だったとしたら、宇宙全体は僕らと大体同じだと思えるロマンがあるし、これからも科学が進歩していく目的としても純粋に良いものだと思える。まだまだ見なければならない物事の角度はたくさんあるはずだからだ。

 

◆選択肢と生きる事

人間や動物が生きているか死んでいるかは、ひとまず人間が勝手に定義した内容とすれば「自分で何かを選択できる要素を持つか持たないか」だと思う。呼吸ひとつできなくなったのなら、それは死んだこととなっている。

脳死の人は議論が分かれるけれども、まだ復帰する可能性が残されているのならば、まだ死んでないと捉えても良いのだろう。いつかまた自分で何かを選択しはじめることができるかもしれない。いや、外からは選択できないように見えて、意識の中ではいろんな考えを巡らせて「選択」をしているのではなかろうか。

 

僕はいま生きてこのブログを綴る中で、本当に「何かを選択している」のだろうか。それほど自由な意思を持っているのだろうか。もしかしたら、自分で判断しているものというのは、存外に少ないのかもしれない。それに気付かないというだけで。

 

それでも、友人はもうこの世にはいない。そして僕は生きている。少なくとも、友人は僕の視点の上では何かを選択することはできなくなった。いつのことになるかは分からないが、百年もしないうちに、僕もこの身体で何かを選択することはできなくなるはずだ。

生きているとか、死んでいるとか、電子がどうとかは、たしかに難しい話だけれども…

友人の訃報を聞いて一晩、こんなようなことをずっと考えていたのだ。どうして彼がいなくなり、僕が生きているのだろう。

彼の方がよっぽど元気で健康に思えたのに。難病でいつも弱音を吐いてる僕の方がいくらでもいなくなってしまいそうだったのに。

彼は肺癌を患っていたそうだ。訃報を伝えてくれた友人達も、僕も全く知らなかった。つらい闘病だったのではないかと思うと心苦しい。本当に。

僕もこの病でよく入院しては苦しんでいるけれども、彼の苦しみに比べれば何ともないものだったのかもしれない。

 

……。

高校時代の彼は、どのような立場であれ、クラスの中では中心的な位置に居たように思う。ちょっと人を小馬鹿にしたようなところもあったけれども、もしかしたらクラスの全員と繋がれていたのは彼だったのではないか。ピエロ的に振る舞っているひょうきんな彼の姿を思い出すと、そんな風にさえ思えてならない。しかし、僕は忘れていない。こちらがふと真剣なトーンを出せば、彼もその態度の「なり」を潜めさせて真剣な話をしてくれたことを。彼は彼なりに、色んなクラスメイトを見ながら、どこか絶妙なバランスを取っていたんじゃないか。よく人をみていた結果だったのではないかと、今なら思う。だから同窓会だとかの、そういう場面ではやはり彼こそが先頭に立って進めていた。なるべくして、彼の役割となっていたのかもしれない。そこに対して僕は、きちんと感謝を伝えられていたであろうか。彼が病で苦しんでいる時に、少しでも応援できる機会を得ることができたのではないか。どんな思いだっただろう。しっかりご家族に見守られていたのだろうか。自分の病と闘うことは、本当に孤独なことだと思う。少しばかりだけども、僕もそのつらさがわかる。今更なことだけども、一言だけでも励ましたかった。本当にそう思う。

 

不思議と僕は生きているのだから、一晩彼の事を思い描いて祈る中で「病に苦しみながら頑張っちゃってます」なんていうキャラをいつまでも演じている事を、もうやめようと思った。

僕が病と闘っていることは確かだが、せめて目標だけでも「俺は健康を勝ち取ったと叫ぶのだ」と定めて生きていきたい。僕はそのような選択をしようと思う。

 

生きている上で出来ることは「選択し続けること」かもしれない。たしかに、生きていなければそれはできない。その選択は、実は自分が自由にやれていると錯覚しているだけに過ぎないものだったとしても、僕はとても凄いことだと感じる。それを「生命」だと名付けてよいのなら、僕はそうしたい。

彼の分まで… などという立派な事は言えないが、不思議にも生きている間は、自分が堂々と選択をし続けられるようでありたい。

 

在りし日の友の笑顔を思い起こしつつ。